2008年9月14日日曜日

ダージリンで民族衣装を奨励

GJMが政権を取ってから次第に西ベンガルからの分離色を強めているダージリン丘陵で、今度は民族衣装を着ることが奨励された。
Sale of traditional attire in the Hills rise


GJMは10月7日から、民族衣装を着ることを奨励(とはいうけれど、記事にはmandatory/強制とある)。これによって、店には注文が殺到しているとのこと。

「最近じゃ、売り上げはいつもの2倍さ。今の在庫じゃ注文に間に合わないんだ。明日か明後日入荷するんだけどね」と、店主のラジェンドラ・プラダンさん。

ラジェンドラ・プラダンさんよりも本気で悲鳴を上げているのは、数少ない仕立て屋さんたち。そのひとり、ナル・バハドゥール・ライガインさんは「一着仕立てるのにまる一日かかるんだ。休む間もないよ」。

住民の間では、「伝統衣装を着る機会があるのはいいことですね。ダシャーラーでは家族みんなで伝統衣装を着ようとおもいます。自分たちのルーツを忘れないことは大事だわ」と主婦のジャナキ・スバさんが言うように、好意的に受け止める向きもあるが、学生のシータル・ライさんは、「伝統衣装をきて学校に行くなんて想像できないわ。歩くのにも不便だし」と批判的だ。


不便だからということではなく批判的なのが、この地方の先住民であるレプチャ。
Dress code relaxation for Lepchas
ダージリン・レプチャ・コミュニティのチーフ・アドバイザーは「私たちはゴルカランドを全面的に支持しています。しかし私たちの文化や伝統は守りたい。ネパール人の衣装には反対です」と言う。

この写真の手前の男性が着ているのが、ネパールの伝統衣装とされるDaura Suruwal。

下はレプチャの男性。帽子が特徴的。



































(上はhttp://blog.com.np/united-we-blog/2007/07/20/in-a-nepali-village-of-daura-suruwal-young-generation-wants-jeans/
下はhttp://www.indianetzone.com/9/costumes_sikkim.htm)

2008年8月28日木曜日

タミルの英雄、米国へ

『ムトゥ:踊るマハラジャ』などで日本にインド娯楽映画ブームを巻き起こしたラジニカーント(Rajinikanth)の新作映画、Kuselanが公開されました。

↓は、そのテーマソングです。
Listen to Kuselan Audio Songs at MusicMazaa.com

ラジニカーントは日本では有名ですが、インドでは全国的な人気を博しているわけではありません。
タミル語映画の人気俳優ですが、ヒンディー語映画のではないからです。やしきたかじんが関西では絶大な人気を誇るにもかかわらず、全国放送には現れないので全国的には知名度はそれほど高くないのに似ています(と調べたわけではないのですが、なんとなくそう思います)。

今回の作品は、アメリカ合衆国でも公開されました。
http://economictimes.indiatimes.com/News/News_By_Industry/Media__Entertainment_/Entertainment/Huge_cutouts_of_Rajnikanths_Kuselan_dot_US/rssarticleshow/3312690.cms


ラジニカーントの映画がアメリカで上映されるのは初めてのようですが、なかなかの人気のようです。

2008年7月29日火曜日

ダージリンの状況を。絵つき。



こちらがGNLFのリーダー、スバス・ギシン。


父親が死んだので学業を断念して軍人に。

退役後はもういっぺん学校へ行ったけど、政治活動をやって睨まれて退学。


その後、GNLFゴルカ民族解放戦線を結成して、ダージリンを中心としたネパール系住民の権利獲得に奔走。

当初目標としていた西ベンガル州からの独立はならなかったが、ダージリン・ゴルカヒル評議会DGHCの設置を勝ち取った。
人前ではかならずネパールの帽子「トピTopi」をかぶっている。







こちらはビマル・グルン。
詳しい経歴は把握していませんすいません。
西ベンガルからの独立を放棄したGNLFとスバス・ギシンに反発して、GJMゴルカ人民解放戦線を結成。
7月17日、「おれは地下に潜る」と宣言して行方をくらませたが、25日GNLFとの衝突で一人が死亡したことについて、27日「ゴルカランドを勝ち取る日まで戦いつづける」と声明を発表した

2008年7月26日土曜日

ついに死者が。ダージリン。

緊張が続くも静かだったダージリンで、25日、ついに大きな衝突が発生。
http://howrah.org/india_news/19960.html

ネパール系インド人と西ベンガル州政府の衝突かと思いきやそうではなく、
「ゴルカランド運動」の急進派GJMと与党GNLFの、それぞれの支持者同士の衝突。

事の起こりは、25日午後1時半、GNLF党首スバス・ギシンが27日に政界復帰するらしいといううわさにGJM支持者が激怒、ギシンの自宅を囲んで抗議した。
その後、彼らはGNLF幹部ディーパック・グルンの家に押しかけ、自宅の外で自動車に放火するなどした。
この群集に対し、GNLF支持者が発砲、1人が死亡した。

さらに詳しい経過、写真は下記のサイトへ。
衝突について
衝突の原因になったスバス・ギシン襲撃について

2008年7月23日水曜日

「アラバニ」で検索すると同じ記事に行きつく

男でも女でもない「第三の性」認め支援 インド南部の州
1ページ目
2ページ目
3ページ目

朝日新聞の記事。
「アラバニ」というのは去勢した男性。彼ら自身のジェンダーアイデンティティは「(不完全な)女性」。
記事の趣旨は、男でも女でもないという状態を公的に認めたタミルナド州の試みを紹介すること。

同様の「第三の性」は北インドにも(そしてそれ以外の土地にも)いるが、有名なのはヒジュラ。
ヒジュラは、結婚式や子供(男児)の命名式において歌ったり踊ったりしてそれを祝福するのを生業としている。ただし、それだけでは生計を立てられないので、アラバニと同じように物乞いもする。表立っては言われないが、売春も。

上の朝日新聞の記事では、「南インドにはヒジュラの伝統はなく、物ごいか売春で収入を得る人が多い」とある。これについて、ヒジュラに詳しいドクターKは、

いや~この記事読んで最初に思ったのは、「アラバニ」と限定しているとこは偉いなと。地元住込の記者さんだからでしょうか。

と語り、ヒジュラと似た存在で、ヒジュラの方が日本では知られているという状況で、アラバニの置かれた社会的な立場を、ヒジュラとの違いを含めて明確に記した記者の知見を評価する。

しかし一方で、次のようにも指摘した。

でも、この記事からだと、南インドにおいて、何故「物乞い」という行為がまかり通っているのかはわかりませんよね。物乞いだって、本来ならば、モノをあげる側の人たちに、福を積む機会を与えてあげるという意味で、祝福行事と同じくらい立派な意味のある行為だと思うのですが。

またドクターKは、ヒジュラと同じく、アラバニも「性」という文脈において(しか)関心を持たれないことにも疑念をあらわした。

「日本の性同一性障害と同じ」としてしまうと、「アラバニ」として生きられている人たちの存在意義を無にしてしまうのではないかな~と。




ところで、「アラバニ」と検索すると、すべての記事が朝日新聞の記事に行きつく。この記事がそうであるように。
つまり、日本では、ほとんど知られていなかった存在であるらしい(ヒジュラに関してはすでにいくつか重要な出版物がある)。

英語圏ではどうかというと、「Aravani」で検索すると多くの記事がヒットする。興味のある方は一度試してください。とくにFlickrでは人気の被写体らしい。

2008年7月14日月曜日

今回のゴルカランド運動について

ダージリン三郡を中心としたゴルカランド運動は、1986年から数年間にも激化している。これについては以前の記事でも引用した関口真理氏の記事を参照してください。

今回の運動が1980年代のそれと違っているのは、それを指導しているのがビマル・グルン(Bimal Gurung)率いるGJMであるということ。1980年代は、GNLF(ゴルカ民族解放戦線。日本語に訳すとGJMとほとんど同じ意味)と、その党首であったスバス・ギシンが指導していた。

ゴルカランド運動を「分離主義」として批判するSwades氏によると、GJMは2007年末に結成された。リーダーのビマル・グルンは、もとDGHC(ダージリン・ゴルカ丘陵評議会。「ゴルカランド」の自治を担う会議)の評議員で、スバス・ギシンとは近い関係にあった。ところが両者は2007年に6th Schedule statusをめぐって対立。ビマル・グルンは完全な州としての独立を求めた。

6th Schedule statusは、この記事によると(http://www.thehindu.com/2005/12/07/stories/2005120709211300.htm)2005年12月6日に、中央政府、西ベンガル州政府、DGHCのあいだで同意されたと発表されたもの。これによって、「アッサム、メガラヤ、ミゾラム、トリプラの自治県評議会と同様の権利を獲得した」とされる。

主張がある程度認められたに もかかわらず、なぜGJMが活動を激化させているのか。
上記のSwades氏によると、2007年12月、6th Scheduled statusがParliamentで見送られたという。おそらくグルンとギシンの対立はそこから始まった。また、GNLFは依然与党ではあ るが、すでに支持者の多くはGJM支持に回っているという。たとえば、今年2月には、ニューデリーからダージリンへ帰還する途中のスバス・ギシンが、シリグリでGJM支持者によって立ち往生させられた事件があった(http://www.hindu.com/2008/02/19/stories/2008021960750500.htm)。

これまでに、学生らも参加したハンガーストライキや旅行者の締め出しといった事件も起きている。それについてはいずれ。

(一村)

2008年7月9日水曜日

International Schools in Cambodia

ここカンボジアの首都プノンペンには、“○○International School”がそこかしこにある。何をもってInternationalとしてるのか、よくわからないが、多分、授業の大部分を、英語で行っているからだと思われる。実際には、地元カンボジア人の子弟が生徒の大半。授業料も安くはなく、通学しているのは、富裕層の子供たちであると言えよう。

学校が終わる午前11時ころと午後4時ころになると、門の前に、父兄が雇った運転手や、父兄の迎えの車でごったがえしている。
子供たちは、午前中は、クメール語教育の公立小学校に行き、午後は、こうした英語教育のInternational Schoolの小学校に通う。小学校は、2部制のため、↑の逆にしている子供もいる。都会の子供は、日々大忙しである。

先日、カンボジアの首都プノンペンで今一番賑わっているスポット、ソリヤー・ショッピングセンターの1階中央部で、ZAMAN International
School(http://www.zamanisc.org/)のプロモーションが行われていた。

この学校は、トルコ系のInternational School である。Wikipediaによると、1997年の創設で、私立のNPO学校とある。
創設者:Atilla Yusuf Guleker
校長:Osman Karaca

1997年と言えば、1993年に内戦後初の選挙による新政権が発足してから、数年後のことであり、カンボジアのInternational Schoolの中でも、古いほうなのではないかと思われる。

カンボジアとトルコとの関係は、よくわからないのだが、筆者が、王立プノンペン大学の外国人向けカンボジア語コースで勉強していた際、クラスメイトに2人の若いトルコ人学生がいた。

このクラスには、私以外に、もう1人の日本人留学生の人と、
・アメリカ人女性・・・1人
・アメリカ人男性・・・1人
・中国系シンガポール人の夫妻
・トルコ人留学生・・・2人
計8人がいた。

しかし、奇妙だったのは、先生が、「あなたは、なぜカンボジア語を学びたいのですか?」という質問に、私ともう一人の日本人学生、NGOで働いているというアメリカ人女性以外、答えなかったのである。カンボジア人の先生もあまり経験のないことなのか、困惑していた。最初は、言葉が分からないのかと英語で説明されたが、それでも、返事は、ほとんど返ってこなかった。

多分言葉の問題ではなかったのだと思う。
最後の授業の日になって、シンガポーリアン夫妻からもらった小さな小冊子には、(クメール語で神)とは?と書いてあった。彼らは、キリスト教の宣教師夫妻だった。あと2人のトルコ人学生も謎の存在のまま、授業は終わった。
彼らは、カンボジア語を勉強した後、今どこで何をしているんだろう??